東日本大震災被災地見学記 その4

2018.7.3


帰還困難区域

 いよいよ福島第一原子力発電所へと迫って、帰還困難区域へ入ります。この区域内を南北に走る国道6号線は、2014年9月15日に開通しました。四輪車のみが通行を許されていて、二輪車、歩行者は通行が許されず、居住もできません。鉄道駅の双葉駅、大野駅、夜ノ森駅は未だに閉鎖されたままです。

 原発事故が生じた制限区域は3種類あります。

帰還困難区域

年間積算線量が20mSvを下回らない恐れがある区域
2012年3月時点で年間積算線量が50mSvを超える区域

居住制限区域 年間積算線量が20mSvを超える恐れがある区域
避難指示解除準備区域 年間積算線量が20mSv未満が確実な区域

 これでよくいわれるのが、チェルノブイリ事故の避難指示との比較です。最初は年間100mSvを基準にしたのですが、毎年下げていって、事故の5年後には5mSvにしました。日本ではこの4倍の20mSvなのです。

 下の図の赤い部分がそれに帰還困難区域です。6号線を南下しながら福島第一原子力発電所の近くまで行き、さらにその南の富岡町も見学します。

図は福島復興ステーションから引用。
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 双葉町、大熊町、富岡町を走行したのですが、その距離には驚きました。地図で見ると、それほど広く感じないのですが、車で走ると、行けども行けども帰還困難区域という感じです。

 狭い日本のこれだけの地域が原発事故で使えないのです。一見、人が住んでいるように見える街に、誰一人いません。脇道と建物への入り口はバリケートで封鎖されています。異様な光景にです。誰もがこの光景を見るために福島県に来るべきです。

 福島第一原子力発電所に最も近い場所、発電所の真西からの写真です。クレーンがあるあたりが発電所(の残骸)です。原子炉までの距離は約1500メートルです。

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 6号線の西側の小高い場所に東京電力社員の住居があったのですが、震災の直後、トラックが来て、社員の家族は荷物を積み込んで逃げ去りました。上の写真の右上にある建物がそうかもしれません。東電社員の逃走は報道で知っていたことですが、現物を見て、改めて怒りがこみ上げてきます。

 信号機はほとんどが黄色点滅です。脇道の多くが封鎖されているためです。

 熊町の町並みは一見、人が住んでいるように見えますが、住居の出入り口はすべて封鎖されています。どう見ても異常な光景です。総理大臣はここに視察に来たことがあるのでしょうか?。ないのでしょうね?。

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 6号線沿いのあちこちに線量計があります。先に示した線量計と比べると、かなり数字が高いことがわかります。私が見た線量計で一番高かったのは3マイクロシーベルトだったと記憶します。企業の看板がたくさん見えますが、建物はすでに活用されていません。本当に不気味です。

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 富岡町に3分の1程度入ったところで、帰還困難区域は終わります。ようやく人が住んでいる場所へと戻りました。

  夜ノ森に展示されている警察官2名が殉職したパトロールカーの残骸です。めちゃくちゃに壊れた車体が津波のエネルギーを物語っています。何度も津波で横転させられ、叩きつけられたのでしょう。

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 6号線上にあるここから先が帰還困難区域であることを示す電光掲示板。二輪車と歩行者は入れないことを示しています。

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 このように、富岡町内では各所で帰還困難区域の封鎖線が見られます。富岡町では人が住んでいる区域の隣に、居住できない区域が混在しているのです。その異様な雰囲気は忘れられません。

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 帰宅困難区域で私が見たのは「壮大な非効率」でした。走っても走っても途切れない使えなくなった地域は非効率の最たるものです。このような区域を作ってしまう原子力発電所は、やはり日本には不要です。

 富岡町では不思議な光景が見られます。新築アパートがあちこちに建てられているのです。新築ホテルも見られました。原子炉の廃炉作業を見込んで、職員が住むためのアパート建設が進められているのです。夜の森駅は使用不能ですが、その隣の富岡駅は再建され、作業を支援する態勢が整えられています。

 このあと、常磐自動車道を通って、一気に出発点の相馬町まで戻り、ツアーを終えました。その後、さらに高速道路で仙台インターまで行き、宿泊先がある仙台市へ向かいました。

雑感

 雑談の中で、震災時、情報がまったく手に入らなくなって困ったという話が出ました。電気が止まったからです。あとで考えたら、車のエンジンをかければカーラジオが聴けたのだけど、それを当時は思いつけなかったということです。未曾有の事態に直面すると、人は普段は思いつくことが頭に浮かばなくなるのです。こういうことを前提に防災手段を考えないとダメだと痛感しました。

 お話を聞いていて、自分が震災当時に感じたのとは違う感覚をお持ちだとも感じました。

 それもそのはずでした。現地の人たちは情報収集が困難な状況に置かれているのに、私は情報を得られる状況にあったのですから。これも防災を考える上で一つのポイントになります。被災者は情報不足に置かれ、部外者の方が情報を持っているということです。

震災当時を思い出すと……

 ここで、私が当時、どんな風に考えていたかを書いておきます。

 東日本大震災が起きたとき、私は北海道の自宅にいました。いつもとは違う揺れだったので、直ちにテレビの地震速報を確認しました。大きな揺れが起きたことが分かり、その後、高さ10メートルの津波が来ることも分かりました。このときは、なんとか防潮堤で食い止められないかと期待したものです。

 しかし、その後に入ってくる情報は絶望的でした。津波の高さは予想を超えて15メートルはあるように思われました。防潮堤は次々と突破され、市街地へ押し寄せました。為す術もなく、街が破壊されていくのを、ただ眺めていました。

 さらに、福島第一原子力発電所で冷却機能が失われたという情報が入りました。これには驚愕しました。直ちに冷却機能を復活させないと原子炉はメルトダウンします。

 私は1979年に起きたアメリカのスリーマイル島での原発事故の記録を調べ、福島第一原発が冷却不能になった時刻から、メルトダウンが起きる時刻を予想しました。

 スリーマイル島原発では、16時37分に作業員のミスが元で2次冷却水の循環が停止しました。原子炉は緊急停止したものの原子炉の温度は上がり、さらに作業員のミスで1次冷却水まで止まりました。このため、原子炉は空焚きの状態になり、炉心温度が上昇を続け、メルトダウンが起こりました。

 発電事業者が原子力規制委員会へ事故を報告したのは20時45分でしたから、この前にはメルトダウンが起きていたことになります。福島第一原発で冷却機能が失われたのは第一波の津波が押し寄せた15時27分以降と推定されるので、スリーマイル島事故と同じように推移すれば4時間後の19時頃にはメルトダウンする理屈です。

 数時間内に対処がなされないと、メルトダウンは起きるはずでした。しかし、何の発表もなく、翌朝のニュースで「メルトダウンは起きていない」と発表されたのを聞いて、私は政府発表は信じない方がよいと考えるようになりました。

 3月12日に、私は当サイトで「福島第1原発がメルトダウンの可能性」という記事を書いています。以後、原発事故が最悪の状況へ向かっている可能性を指摘していくことになりました。この時点でメルトダウンが起きていて、東京電力がそれを隠し、政府もそれに従っているのだと信じていました。

 車の運転ですら危険を予知して運転しろといわれるのに、もっと危険な原発は「危険を確認しない限りは、それをないものとして運営しろ」という方針で動かされているのです。これまでずっと、そうやって原発を運営してきたのだと悟りました。最悪の方法で原発が運営されていると。

 

前へ 続く

 

 


 

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