サイパン島玉砕調査 経過報告

2016.9.8


 前に取り上げたサイパン島玉砕時、3人の日本軍高官の自決に関して、史実は定説と異なる可能性について書きました。その後の調査の進展について説明します。

 関係する記事はこちら。(

 関係者の著作物をさらに読み込みました。

 菅野静子氏の著作には、井桁陸軍少将が野戦病院に運ばれてきたのは「多分二十四、五日を過ぎた頃だったと思う」(『サイパン島の最期』 p223)と書いています。

 『丸 別冊太平洋戦争証言シリーズ 玉砕の島々 中部太平洋戦記』の『第四十三師団サイパン玉砕記』は斉藤義次陸軍中将の参謀だった平櫛孝陸軍中佐が書いたものです。本は絶版ですが、ほぼ同じ内容の『サイパン肉弾戦』は現在でも販売されています。この本に6月26日の朝、「洞窟の外は米機の掃射を受けて、大混乱していた。井桁参謀長がみずから外に出て、大声をあげて指示をあたえている。軍参謀長として冷静に戦況判断をしてもらうため、洞窟の外の処置は私が代わってする。」(p156)と書かれています。

 両方の記述は矛盾します。少将が野戦病院に来た頃には、まだ彼は司令部があった洞窟の中にいたはずだからです。しかし、日付けに関しては記憶違いなどが考えられます。もし、26日の朝に機銃掃射で井桁少将が負傷し、その日の夜に野戦病院に運ばれたのが真実とすれば、矛盾はないことになります。平櫛中佐はそれを隠すために悪意のない嘘を書いたのかも知れません。

 それを裏づけるかどうかは分かりませんが、井桁参謀長、斉藤中将、南雲忠一海軍中将の行動に関する記述はこの辺からほとんど出てきません。司令部が移動するときに平櫛中佐が三将軍を案内したといった記述はあるのですが、将官たちが大本営に打電したとか、何か指示を出したといった、それ以前にみられた表現はありません。まるで将官がなにもしていなかったかのように感じられます。

 依然として、三将軍が一緒に自決しなかった可能性は否定できないと思われました。

 菅野氏の本の出版社2社に、菅野氏のご家族が老将官が井桁少将と判断した理由を御存知ではないかと問い合わせました。1社からはご家族とは現在連絡が取れないといい、もう1社からはご家族も当時のことは分からないとの回答でした。一応、兵士の家族とやり取りした手紙を探して欲しいとの要望を出しましたが、多分、当時の手紙は存在していないでしょう。

 残る可能性は井桁少将のご遺族が菅野氏の手紙を持っていないかと、手紙がないにしても、当時のやり取りなどを記憶していないかを調査することですが、今のところ、探す手段が見つかっていません。

 米国立公文書館への問い合わせに関して返事が来ました。残念ながら、今回教えてくれた資料はすでに知っているか、それらと内容が変わらないものでした。

 回答者は斉藤中将と南雲中将は別々の洞窟で自決したとみられるとしていますが、資料の中には明確に書かれていなかったり、同じ場所で自決したと解釈できるものもあります。

 こうした公文書を根拠に書かれた歴史書はインターネットでも入手できます。私が知りたいのは、公文書そのものなのです。歴史書には書かれていない記述が、知りたいことを裏づけるかも知れません。

 戦闘報告書に遺体を発見した場所が正確に書かれているかも知れません。本人確認をした方法もかいてあるかも知れません。

 しかし、公文書館の担当者は、現物の資料がある場所と、そこの利用法を教えてくれました。防○省の○衛研○所と違って、じつに親切です。問題は、資料がある場所がアメリカで、そこに行けないということです。資料は数カ所に分散して保管されています。

 平櫛中佐は自分の説明以外は全部作為されたものだと主張しますが、将官を埋葬したことなどを心理戦のためにでっち上げる可能性は小さいように思われます。なにしろ大した効果が認められません。また、作戦指揮官だったホーランド・スミス海兵中将の性格からしても、そういう作為は望まないように思われます。

 前回の質問はあまりにも簡素だったので、もう一度、詳しく書いて送ってみようと思います。返事は変わらないでしょうが、やれることはやりたいのです。

 さらに調査は続けていきます。

 


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