斎藤中将、南雲中将は別個に自決したのか?

2016.8.15
追加 2016.8.15 8:50


 先日、菅野静子氏の著作により、第2次世界大戦中、サイパン島の戦いにおいて、最高司令部で一緒に自決したとされていた3人の将軍の内、井桁少将は司令部におらず、野戦病院で自決していた可能性があることを解説しました。(関連記事はこちら

 これは『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈1〉』 が説明する以下の状況と矛盾します。

 この訓示の後、すなわち七月六日九時から十時の間に、南雲長官、斎藤師団長、井桁、矢野両参謀長は、最後の突撃に先立って自決した。

 その事実をさらに確認すべく、斎藤中将の遺体を米軍が発見し、埋葬する過程の資料を探したところ、さらに意外な事実が判明しました。

 戦史叢書には、日本軍が1944年7月6日に玉砕命令を出した経緯について、次のように書いています。

 合同司令部は、連絡将校を各部隊の前線に派遣し、中部太平洋方面艦隊司令長官の全島陸海軍将兵および軍属に与える玉砕の訓示を伝達した。(p503)

 この訓示とは、有名な「今ヤ止マルモ死進ムモ死」のフレーズを含む文章で、戦史叢書は発信人を「南雲中将」と書いています。この訓示は複写されて部隊指揮官に配布されたため、7月9日に第4海兵師団が手に入れていました。

 米国立公文書館のサイトで「Naval Aide's Files Warfare-Pacific Area (General) - June 1942-March 1945」というタイトルで公表されているpdfファイルのp47に米軍が入手した訓示の原文が掲載されています。

 これには発信人は「南雲中将」ではなく、不明瞭ながら「方面艦隊司令長官」と、さらに不明瞭ながら、おそらく「北「マ」集団司令官」と書かれているように読めます。「マ」の部分はマリアナの略記です。斎藤中将が担当した戦区の名称は「北部マリアナ地区集団」で、当時はこれを「マ」と表記することがありました。

図は右クリックで拡大できます。

 戦史叢書に書かれた訓辞は、この原文と微妙に表現が異なっているので、生存者の記憶に基づいて再現されたものと想像されます。文末の「進發ス 續ケ」は戦史叢書では「発進ス 続ケ」で、「続ケ」の前で改行しています。

 同じpdfファイルのp49〜p50には、その翻訳文が掲載されています。

 日本陸軍第43師団の情報将校がこの訓示について、斎藤中将によって7月6日午前10時の中将の死に先立って午前8時頃に送達されたと述べたと、翻訳文に説明が付記されています。

 この訓示について、米軍の書面は「サイパン島を守る日本人将兵への斎藤中将の最後のメッセージ」と説明しています。日本の資料では南雲中将と斎藤中将が連名で出したことになっている訓示が、米軍の資料では斎藤中将が出したことになっているのです(下の写真の赤線部分)。書面には右上にニミッツ提督の署名があります。

図は右クリックで拡大できます。

 同じpdfファイルのp51〜p54にかけて、「捕虜にした日本人将校による斎藤中将最期の日々についての個人的な説明」が掲載されています。日本人将校の氏名は書かれていないので不明です。

 その中に次のような説明があります。(全訳はこちら

 「(前略)南雲中将の意見は聞いていたはずだが、彼がその近くにいたとしても、2つの司令部の間には連絡がなかった。こういう状況下で最終計画は立案された。しかし、サイパン島における戦いは、斎藤中将の下で、陸軍と海軍両方が統合して行われていたのだから、これはまったく適切だった」

図は右クリックで拡大できます。

 訓示は南雲中将ではなく、斎藤中将が作成したのです。さらに日本人将校は次のように説明します。

 「(前略)私はその朝、連絡役として前線に出なければならず、そのために最期の時を目撃できなかった」
 「私はそれが以下の方法で起こったと考える」
 「彼自身が岩の上で場所を清め、斎藤は座った。かすみがかかる東を向き、『天皇陛下、万歳!』といい、まず、自身の刀で流血し、それから介錯人が拳銃で彼の頭を撃った」
 「私が任務から戻った時(7月6日午後10時)、彼らはすでに中将の死体を埋葬していた(後略)」

 サイパンからは皇居は西方にありますから、証言で東方としているのは日本人将校の誤認でしょう。

 日本人将校の説明では「2つの司令部の間には連絡網がなかった」ために、斎藤中将が南雲中将と合議することなく、訓示を書いたことになります。戦史叢書には「合同司令部」との記述がありますが、実際には合同司令部とはいえない状態だった可能性があります。

 さらに気になるのは、南雲中将が一緒に自決したという説明がないこと。訓示が配布されたのが午前8時で、斎藤中将が自決したのは、その2時間後です。伝令が訓示を持っていき、南雲中将が移動を開始し、敵が包囲する中で斎藤中将のところへ移動できた可能性は非常に小さいと考えられることから、斎藤中将と南雲中将が一緒に自決していない可能性が高いと考えます。

 斎藤中将と南雲中将の遺体は海兵隊によって発見されたとの記述が散見されるので、その時の報告書があるはずと考えています。二人がどこで発見されたのを確認したいと考えています。下は斎藤中将の埋葬とされる写真です。(7月13日撮影)

図は右クリックで拡大できます。

 子供の頃から、サイパン島玉砕といえば、三将軍が一緒に自決した時に終わったと信じ切っていたので、この発見は私にとって、かなりの衝撃です。いままで信じていたことは何だったのか。

 平櫛孝陸軍中佐は、斎藤中将が中央、右に南雲提督、左に井桁少将が並んで自決したとまで言っています。

 調べてみると、三将軍の死については、諸説あり、南雲忠道中将の場合と同じく、どれも本当らしく見えます。これまでは日本人の証言が根拠とされてきましたが、米軍の資料と付き合わせて考えていきたいと思っています。

 


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