「捕虜にした日本人将校による斎藤中将最期の日々についての個人的な説明」全訳

2016.8.15



1944年7月14日

第二部部長  発
配布先リスト 宛


主題

捕虜にした日本人将校による斎藤中将最期の日々についての個人的な説明

 

1.以下は捕虜にした日本人将校によるサイパン島の全陸軍を指揮した将官、斎藤中将の最期の日々に関する個人的な説明の翻訳である。1944年7月7日朝、我が軍(訳註 米軍のこと)に対する迎撃に参加したこの将校の個人的な申し立ては、前述の日に起きた攻撃を導いた出来事の鮮明な描写を明らかにする。

 「激しい砲撃と艦砲射撃のため、正確な日付けはほとんど憶えていないが、野戦司令部がチャチャの山中から、四番目の位置(ガラパン町の北東境界の東方向の山中へ4キロ)へ真夜中に密かに移動した頃、いまやタッポーチョの山頂を奪われた第135歩兵連隊は東海岸に沿う敵軍によりタラホホ地区へ深く追い込まれていた。
 「新しい野戦司令部で、どうやって早くこの窮地から自分自身を救い出すかを決めるため、会議が素早く開かれた」
 「一部の将校は、この場で最後の突撃をして、戦いの中で誉れ高い死を遂げるべきだと提案した」
 「しかし、斎藤中将は、戦場に分散したままの部隊が沢山あるため、これらすべてを一緒に集め、ここからサイパン島の北西部へ向けて陣地を建設せよと命令した。米軍を粉々に噛み砕かねばならん!と」
 「この時に参謀が、これらの陣地を地図上で特定した。それらはタナパグの北から205.2高地を通り、タラホホへ走る線上に並んでいた」
 「しかし、防衛戦を構築するには、彼らはツルハシとシャベルを集めなければならなかった。それらはすべてバナデルにあった」
 「私はこの計画は、こういう状況下では斎藤中将が描いたとおりに機能しないと考えた」
 「しかし、陣地が完成する前、敵は我々の前線上にあり、我々はその日中、伝令として一兵たりとも出し惜しむことができなかった。我が通信線は破壊され、統制のすべては夜間に行わなければならなかった。それ以上に、こうした撤退の状況下では、夜でなくては状況を統制するのは不可能だった」
 「その一例がある」
 「第135歩兵連隊は指示を受ける一日前に、後方の陣地へ引き揚げた。師団司令部がこれを知った時、それを止めるにはすでに遅すぎた。このために、師団の戦略計画は台無しになった。つまり、ガラパン町の周辺で勇敢かつ頑強に戦っている海軍部隊および陸軍部隊の一部は、撤退のために孤立させられた。タッポーチョの東斜面にいた第136歩兵連隊とその他の部隊は孤立した。そして、最も状況を悪化させ、最も厄介にしたものは、我々が敵の前身を止めるための準備として、新しい陣地を後方へ運べないことだった」
 「我々はこの四番目の司令部に長くは留まらなかった。艦砲射撃の集中に捉えられ、負傷者と死者が増え続けた」
 「我々は五番目の司令部に二日間だけ留まった。7月3日頃(正確な日付けは不確かである)、我々は六番目で最後の司令部へ移動した」
 「この地域は一般に地獄谷と呼ばれ、我々は自分たちの未来を懸念し、これを気に障る暗示であり、徴候だと感じた」
 「この最後の場所で、なんとか私に届いた情報には、まったく落胆させられた」
 「7月4日、敵部隊が谷の反対側に現れ、自動式重火器を我々に射撃した。その時、私は我々が完全に包囲され、すべての希望が失われたと感じた」
 「数日間、食事をせず、よく眠らず、過度に働いたため、斎藤中将は非常に健康がすぐれないように感じていた。彼はヒゲを長く伸ばし、痛ましく見えた」
 「その朝、谷は激しい砲爆撃(それが艦砲射撃か砲兵隊からの追撃砲撃かは分からなかったが、私が受けた中で二番目に最も激しい砲爆撃だった)を受けた。それは司令部がある洞窟が埋まるかと思うほど激しかった。この時、参謀と斎藤中将は破片で負傷した」
 「私は最期の時が近づいていると感じた」
 「斎藤中将は参謀を呼び、部隊指揮官の秘密会議を行った。会議の内容は我々には明かされなかったが、疑いなく本物の日本陸軍のやり方で最期を遂げる最終的な行動をとることを目的としていた。この最期の断固たる行動は、断じて二つの道の一つでなければならない。第一は、我々があるがままで、死ぬまで飢えに苦しむことで、第二は、最後の攻撃を行い、死ぬまで戦うことである。もちろん、師団指揮官の将軍と参謀長は後者を選んだ。しかし、後者を行うには遭遇する多くの困難があった。まず、どの範囲まで兵士を呼集できるか?。彼らを呼集できても、少数にしか武器を供給できない。さらに、彼らを呼集して、命令を出すために二昼夜かかる。すぐに7月6日か7月7日の夜に決定された。機動性の自由を奪われ、一本の道路だけが開いたままで、最後の全力を挙げた絶望的な攻撃だった。成功の見込みはなかった。最後の命令と指示が書き上げられ、疑いもなく前述の儀式的な攻撃を行うための命令となった。南雲中将の意見は聞いていたはずだが、彼がその近くにいたとしても、2つの司令部の間には連絡網がなかった。こういう状況下で最終計画は立案された。しかし、サイパン島における戦いは、斎藤中将の下で、陸軍と海軍両方が統合して行われていたのだから、これはまったく適切だった」
 「将校の伝令は様々な場所の部隊指揮官に命令を広めるために四昼夜かけた」
 「命令を発した後、司令部の活動は終わったように見えた。誰もが私物を整理した。司令部の調理番の好意で、五日の夜に斎藤中将のために別れの宴が用意された。しかし、これは酒とカニ缶だけしかなかった」
 「なぜ、この最後の別れの宴を行ったのか?」
 「斎藤中将は年齢と体が疲労困憊した状態のため、7日の攻撃には参加せず、洞窟の中で自決すると決めていて、準備をしていた。7月6日午前10時!。この時が中将自身が最期の時として設定された。私はその朝、連絡役として前線に出なければならず、そのため、最期の時を目撃できなかった」
 「私はそれが以下の方法で起こったと考える」
 「彼自身が岩の上で場所を清め、斎藤は座った。かすみがかかる東を向き、『天皇陛下、万歳!』といい、まず、自身の刀で流血し、それから介錯人が拳銃で彼の頭を撃った」
 「私が任務から戻った時(7月6日午後10時)、彼らはすでに中将の死体を埋葬していた。彼は『今日明日私が死のうと(この戦いに)大きな違いはない。だから、私は最初に死のう!。参謀たちと靖国神社で会うだろう!』と言ったはずだ。7月7日午前3時!」
 「これが攻撃開始として命じられた時刻だった」
 「部隊は先に説明したとおりに混乱し、入り混じっていたため、7月7日の真夜中から、我々は兵士を集めるためにマタンシャへ出発した。しかし、いつもの通り、途中で我々は砲撃された」
 「午前3時30分、マタンシャに集まれた兵士は、司令部の非戦闘員すべてを集めて、かろうじて六百人だった。多くは武器を持っていなかった。参加者総計を、私は陸軍と海軍あわせて約千五百人と見積もった」
 「戦闘開始!」
 「我々には機関銃が一丁しかなかったが、それは果敢に射撃を続け、夜を昼に変えた!。銃が沈黙した頃、すべての攻撃が時期尚早に終わりとなり、7日の夜明けの滴のように消えた」
 「7月7日!。これはこの戦争で重要な日だ。これはサイパン島の戦いを終わりにした日だ。日本陸軍の勇敢な将校と部下たちが斎藤中将と最期まで行動を共にした日だ」
 「私はまたすぐに単身で敵を攻撃し、勇敢な戦友たちに加わるだろう!」

 

参謀団第二部部長

T.R.ヤンキー中佐

 

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