検証報告 哨戒機が救命ボートを一度しか発見しなかった訳

 

2015.8.3

 防衛庁防衛研修所戦史室が編纂した『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2>』により、なぜザンペリーニたちの救命ボートは第755航空隊の哨戒区域の中を約2週間漂流していたのに、一度しか発見されなかったのかという疑問も解明できました。

  この時期、第755航空隊は2月下旬に設定された海域を毎日哨戒していました。(下図 p297より)

 救命ボートが6月23日に発見されたのなら、2週間以内に再び発見されてもおかしくはありません。救命ボートが銃撃された後、6月24日ではL-3区で、27日にはL-4区で潜水艦が発見され、爆撃が行われ、効果不明と報告されています。30日には生田丸を護衛中に魚雷の航跡を発見し、爆撃しています。

 実は、6月29日に連合軍部隊によってレンドバ島が上陸され、30日、哨戒区域の重点をマーシャル諸島、ギルバート諸島、ナウル島方面へ移すことになったのです。このため第755航空隊7月2日からウェーク島、タワラ島へ移動し、L区の哨戒は空母「隼鷹」の艦載機が投入され、10区に分かれていたL区は半分の5区になり、距離も600マイルから250マイルへ減らされています。(下図 p348より)

 この哨戒区域は7月23日に元の区域に戻されるのですが、7月4日からザンペリーニらが捕まった7月13日(日本では14日)までは、哨戒区域が非常に狭かったのです。さらに、乗員7名の96式陸上攻撃機より搭乗員が少ない艦載機では十分に海面を観察できなかった可能性もあります。哨戒に用いられたのは乗員2名の99式艦上爆撃機と、乗員3名の97式艦上攻撃機だったはずです。

 このちょっとした偶然により、ザンペリーニらが乗った救命ボートは銃撃を受けずに済んだのです。

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