フィッツジェラルド衝突の詳細

2019.2.11


 military.comの記事の元記事である「ProPublica」の記事を読んでみました(記事はこちら)。すでに米海軍の報告書は紹介していますが、こちらはまた別の角度から解析を試みています。その中から衝突に至るまでの経緯を書いた部分を紹介します。

 衝突のプロセスは記事の最初の方にあるCGアニメーションで再現されています。そこに書かれている説明文は衝突の状況を簡単に知る手がかりになるので訳文を掲載しておきます。

午前1時29分
フィッツジェラルドは20ノット(時速37km)で南へ疾走していました。クリスタル号は18ノット(時速33km)で東微北に向かっていました。直前になって駆逐艦は回避を試みました。艦はエンジンの回転数を最大にあげ、急激に左へ旋回しました。

午前1時30分
衝突は8,261トンのフィッツジェラルドを8秒間で30度針路外へずらしました。
ラダーが回転し、その速度が22ノット(時速40km)へ跳ねあがると、軍艦は右舷へ3度傾きました。

午前1時30分34秒
クリスタル号はフィッツジェラルドに激しくぶつかりました。駆逐艦は反対側へ14度大きく変動しました。
数百トンの水が軍艦に溢れ、艦は7度の傾きで安定しました。
一瞬の間、クリスタル号とフィッツジェラルドは共に組んで、横に並んで移動しました。
クリスタル号が自由に離れたとき、船は右へ125度振られました。貨物船はいまや非常に重い142,000トンの貨物船、マエスク・エボラ号(Maersk Evora)との衝突コース上にありました。クリスタルは回避機動を開始しました。
フィッツジェラルドは旋回を続け、次の5分間で360度の回転を完了しました。

 衝突時に駆逐艦を担っていたのは26歳の当直士官サラ・コポック中尉(Sarah Coppock)で、このルートをかつて一度だけ昼間に航行していました。パニックの中で、彼女はフィッツジェラルドをクリスタル号の進路の中へ直接旋回するよう命令しました。彼女の過失が非常に大きいのは明らかです。以下に、衝突までに艦橋で何が起きたかを示す部分の日本語訳を示します。

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 艦橋から、コポックは海を通して日本の海岸に沿う街でかすかに光る遠くの光まで12マイル(19.3km)を見ることができました。月がのぼり、太平洋を横切って光の川が流れました。温度は約65度(摂氏18.3度)でした。波は1から3フィート(30〜91センチ)でした。

 コポックは暗い環境の前にあるSPS-73レーダーを一瞥しました。彼女は約12マイル(19.3km)離れてフィッツジェラルドに接近する貨物船に気がつきました。レーダーは船がフィッツジェラルドの後方約1,500ヤード(1.4km)を通過するであろうことを示しました。彼女は船を追跡しはじめましたが、それに綿密な注意をはらいませんでした。

 戦闘指揮所のレーダーとほぼ同じで、艦橋のレーダーは全体像を提供していませんでした。実際はフィッツジェラルドに近づく3隻の大型貨物船がありましたが、SPS-73は決して同時にそれらの2隻より多くを示しませんでした。

 なぜレーダーがその夜に洋上で船の正確な画像を示さなかったかは分からないままです。一つの説明は3隻の船が共に近くで移動していたことです。コポックが追跡した貨物船はフィッツジェラルドの西にいましたが、ほぼ同じルートを追う2隻の他の船と平行していました。フィッツジェラルドに最も近かった中国の貨物船、ワン・ハイ266(Wan Hai 266)はクリスタル号より少しだけ小型でした。次はクリスタルで、ワン・ハイを通り越して約1,000ヤード(914m)でした。最も離れていたのは、全長1,200フィート(366m)で海の獣の一つ、42,000トンのマエスク・エボラ号でした。約2ダースの小型船、多くは漁船がそれらの周囲に揺れました。

 もう一つの可能性は、コポックが艦橋のレーダーがきめ細かい画像を得るように適切に調整されることを確保しなかったということです。衝突後の復元はコポックが「不適切に調整された」SPS-73の画像の上にあふれる船の一隻を見失ったことを示しました。

 しかし、レーダーがなくても、コポックと艦橋のチームは、平行して走る2隻の他の船に沿って特定していた貨物船のマストの上の光を裸眼で見らるべきでした。ときどき、それらは視界から互いに妨げられたでしょうが、3隻すべてはフィッツジェラルドへ向かっていました。

 たとえば、事故のほんの数分後に撮影されたビデオはマエスク・エボラ号が10,000ヤード(9.1km)離れたところから照らされたのをはっきりと示します。クリスタル号も航行灯をつけ、それは同時に数千ヤード未満しか離れていませんでした。

 しかし、後でわかったことには、誰も艦の右舷側で見張りに立っていませんでした。

 過去何年も、艦長たちは電動的に艦橋の左舷と右舷に見張りを立てました。見張りは一つの仕事を持ちます。洋上で危険を探すことです。しかし、海軍の人員削減がベンソンとその他の艦長に任務を一つの仕事にまとめるよう促しました。「我々は単に左舷と右舷の見張りをするために十分な人、能力のある人を持っていません」と掌帆長のサミュエル・ウィリアムズ1等兵曹(Samuel Williams)は言いました。

 コポックのその晩の副官、ラベン・パーカー中尉(Lt. Raven Parker)は見張りの間、見張り続けることで彼女を助けて艦橋チームの残りと共に2つの側の間を行ったり来たりすることになっていました。

 しかし、パーカーは午前1時直後にフィッツジェラルドの左舷の艦橋に位置する小さな金属製のデッキへと立ち去っていました。彼女はそこでフランシス・ウォーマック少尉(Ensign Francis Womack)と共にいて、彼が船乗りの目、目で距離と相対位置を見積もる能力を発達させるのを助けることで、いくらかの訓練に適応しようとしていました。パーカーは前の艦で艦長が周りを囲む海の中で艦にもたらされた危険を評価するのに手こずったと考えた後で、昇進していませんでした。

 次の15〜20分間にわたり、2人は5、6隻の船を観察しました。それはよいトレーニングだったかもしれません。しかし、それは程度の低いナビゲーションの実践でした。フィッツジェラルドの左舷の艦上には脅威はありませんでした。

 パーカーはフィッツジェラルドの左舷側を確認するために艦橋を歩いて通り抜けました。彼女は時刻を確認するためにディスプレイを一瞥しました。午前1時20分でした。彼女がブリッジウィングに踏み入ると、彼女は約6マイル(9.7km)の距離をおいて接近する船の船首から光る明かりを見ました。それはクリスタル号でした。パーカーはコポックに警告しました。コポックはパーカーに心配ない。船は追跡していたと言いました。彼女は船はフィッツジェラルドの後方1,500ヤード(1.4km)を通過すると言いました。パーカーは疑いました。「我々の後方を横切るようには見えません」と彼女は言いました。パーカーは再び確認するためにブリッジウィングに歩み入りました。突然、彼女はなにかがおかしいと気がつきました。最初の船の背後から2番目の光の一群が静かに動きました。

 それはフィッツジェラルドの誰もが2隻の船がフィッツジェラルドの右舷艦首へ向けて疾走していると認識した最初のときでした。中国の貨物船は実際にはフィッツジェラルドの後方を通過しようとしていました。しかし、少しコースを変えていたクリスタル号は駆逐艦へ真っ直ぐに向かっていました。

 「速度を落としましょう」とパーカーはコポックに言いました。

 駄目だとコポックは再び彼女に言いました。「状況を悪化させるから、速度は落とせない」。コポックは減速が背後を通過することになっている船の進路の中に艦を持っていきかねないと心配しました。

 そうした状況では、部下のパーカーは上官に懸念を示すことになっていました。海軍は「強力な支援」に支えられた「疑わしげな態度」と呼ぶものを奨励します。しかし、パーカーはコポックにやってくる船に関する懸念を示しませんでした。

 午前1時25分、フィッツジェラルドはクリスタル号から6,000ヤード(5.5km)、ワン・ハイ266から5,000ヤード(4.69km)離れ、14,000ヤード(12.8km)離れて接近するマエスク・エボラ号との衝突コース上にありました。高度な機動性があるフィッツジェラルドにとって、道を開けるには時間がありました。

 しかし、コポックはベンソン艦長の服務規程に背きました。助けを得るためにベンソンを呼ぶのではなく、彼女は独断を続けると決めました。コポックは助けを求めるために戦闘指揮所のどちらも呼び出しませんでした。

 「私はやってみて、対処すると決めました」と彼女は言いました。

 午前1時30分ころ、時は尽きました。パーカーはブリッジウィングから駆け込み「船がまっすぐこちらへ来ている」と叫びました。

 コポックは見上げて、艦橋の窓をとおしてクリスタル号の上部構造に気がつきました。彼女はもっとよく見ようとして右舷のウィングへ歩み出て、困難の中にいることを認識しました。海軍の用語では、フィッツジェラルドは極限状態、大惨事の深刻な危険の中にいました。

 クリスタル号を避けるために、コポックは右へ急旋回、国際的な航行規則の下での回避機動のための標準的行動を命令すると決めました。

 彼女はウォーマックへ操舵手へ伝えるために命令を叫びました。しかし、ウォーマックはすぐに彼女の命令を理解しませんでした。ウォーマックが行動をためらった後、コポックは右へ行くことでクリスタルを回避しようとしていないことを確信しました。そうした旋回は艦をワン・ハイ266と衝突させる可能性がありました。

 「ああ、ダメだ。なんてバカなんだ!。私はなんてバカなんだ!」と彼女は叫びました。

 コポックはフィッツジェラルドを後進させる命令を下せました。まだ止まるための時間はありました。アーレイ・バーク級駆逐艦は500フィート(152m)そこらで20ノット(時速37km)から完全に停止に至れました。

 かわりにコポックは訓練の基礎の基礎を度外視した移動を命令しました。彼女は操舵手に駆逐艦の強力なエンジンを全速まで全開にして、左へ向かうことでクリスタル号の前方をかわすよう命じました。「全速前進」と彼女は命じました。「とり舵いっぱい」。

 訓練中だった操舵手、シモナ・ネルソン(Simona Nelson)は25分前から人生ではじめて洋上で駆逐艦の操舵輪をとっていました。ネルソンは凍りつき、どう対応してよいか分かりませんでした。

 サミュエル・ウィリアムズ1等海曹(Petty Officer 1st Class Samuel Williams)はネルソンの悪戦苦闘に気がつきました。彼は舵の管理をして、コポックが命じたとおりにしました。彼はスロットルを完全に押し、とり舵いっぱいにしました。艦のエンジンはフルパワーへ急に回転をあげました。

 この動きはフィッツジェラルドを接近するクリスタル号の進路へ直接向けました。

 コポックは差し迫った危険を隊員に警告するために衝突警報を鳴らしませんでした。

 「私がやる必要があった他のすべてのことに対して、ヘマをする必要があったすべてのことを試みて無我夢中だっただけでした」と彼女は言いました。

 かわりに、彼女は右舷のブリッジウィングへ走り出ました。クリスタル号の無愛想な船首、鋭く情報へ曲がった黒い鉄の壁が彼女の上に現れました。船外へ投げ出されるのを防ぐために、コポックはアリダード、位置測定のための大きな金属製の装置をつかみました。

 「何かにつかまれ」とウォーマックはフィッツジェラルドの艦橋の仲間の隊員に叫びました。

 2017年6月17日午前1時30分34秒、北緯34.52度、東経139.07度で、ACXクリスタル号はUSSフィッツジェラルドへ衝突しました。30,000トンのクリスタル号は18ノット(時速33km)で動いていました。8,261トンのフィッツジェラルドは22ノット(時速40km)で加速していました。

 クリスタル号の船首とその突き出た下の船首が挟み撃ちのようにフィッツジェラルドを襲いました。てっぺんはフィッツジェラルドの船首から160フィート(48.8m)後方にあるベンソンの個室に突き刺さり、金属の船体を剥ぎ取り、彼の士官室をぺちゃんこにしました。下部は2号寝台と近くの区画を超えて切り裂き、13フィート(396cm)☓17フィート(518cm)の穴を残しました。

 2隻の船は直ちに互い離れなくなり、一瞬の間、舷側厚板と舷側厚板をくっつけて水路を移動しました。それから衝突のものすごい力がそれらを分離させました。

 クリスタル号は2分間で右へ125度振られました。衝撃は貨物船を巨大なマエスク・エボラ号との衝突コースへと押しました。大型船は混雑する海では互いのまわりを動くため、クリスタル号の船長はゆっくりと展開された回避行動をとりました。クリスタル号が支援を提供するために現場へ戻るためには1時間がかかりました。クリスタル号の20人のメンバーは誰も深刻な怪我をしませんでしたが、構造上の損傷は重大でした。修理には35トンもの鉄が必要でした。

 フィッツジェラルドは左舷へ鋭く揺れ、クリスタルから解き放たれたとき右から左へ20度倒れました。艦は左舷へ7度の傾きで安定しました。コントロールを失い、駆逐艦は水路を360度スピンし、5分間で完全な円を完成しました。

 止まったとき、フィッツジェラルドは動力と通信を失っていました。

 艦は水路の中で死んでいました。


 なんというか、ほとんど素人が船を操縦していたかのように、私は感じました。このレベルの人たちが世界で最も強力な戦闘艦を動かしているのだと思うと、ゾッとさせられます。

 おそらく、事故は両舷に見張りを置いていれば防げたでしょう。より早くコポック中尉に警告が届き、コポックは別の見方をしたかもしれません。

 背景には海軍の人員不足があるとはいえ、さらには機材の不調が相まって、事故が起きたことになります。

 現在外務副大臣を務める佐藤正久参議院議員は、この事故が起きたとき、このような危険を冒してまで日本を守ってくれる米軍に感謝だと言いました。その実態はこのような怠慢に基づくものだったのです。佐藤議員は韓国駆逐艦によるレーダー照射事件では言葉を極めて韓国を避難しています。自国領海内で外国の軍隊が重大事故を起こしたときには何の批判もしていません。

 そして、やはり米軍の情報開示のレベルと我が国のそれとの格差も感じざるを得ません。ここまで詳しく自らのヘマを公開する点は、やはり我々が見習うべきことです。多くの人は軍事情報は何でも機密にすべきだと考えますが、ほとんどの場合で有害な影響はなく、情報公開がもたらす安心感の方がはるかに有益なのです。

 

 


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