イラク軍の反撃の陰にイランとヒズボラあり

2014.11.7


 military.comによれば、先週、イラクのジゥフ・アル・シャカル(Jurf al-Sakher)をイスラム国から奪還したイラク軍はイランの支援を受けていました。

 ジゥフ・アル・シャカルからイスラム国が撤退し、イラク軍が過激派グループに対する希有な勝利を誇示し、国営テレビは戦車やハンヴィーが街をパレードし、兵士たちが8月以来、民兵が占拠した政府ビルを巡るのを映しました。しかし、すぐにイラクの独立系ニュースサイトに出された写真は別の存在を明らかにしました。イランのガーセム・ソレイマーニー少将(Ghasem Soleimani)の名前はイラク軍の数少ない勝利と同意語になりました。地元指揮官はレバノンのヒズボラグループも戦線にいたと言いました。

 民兵指揮官はイラン革命防衛隊の軍事顧問数十人とレバノンのヒズボラがジゥフ・アル・シャカルの戦線におり、約7,000人の兵士と民兵に兵器の訓練を提供し、作戦に先立って軍指揮官の調整をしたと言いました。

 ニックネームをアブ・ゼインナブ(Abu Zeinab)と示すことにのみ合意したある指揮官は、ソレイマーニー少将はジゥフ・アル・シャカルの作戦を3ヶ月前に練り始めたと言いました。首都の南、50kmにある街は、今週、スンニ派とシーア派を分断した7世紀の戦いで死んだ、預言者マホメットの孫、イマム・フセイン(Imam Hussein)の死を祝うために、聖地カルバラ(Karbala)に向かうシーア派巡礼者が使うことが多い道路上にあります。

 イラク軍当局は、ソレイマーニー少将がジゥフ・アル・シャカルにいることや、彼が指揮官の役割を果たしたと知られる、8月のアミアリ(Amirli)と6月の聖都サマーラ(Samarra)を含めた過去の勝利について話すのを拒否しました。

 ヒズボラは公にアサド大統領を倒すために戦う、主にスンニ派民兵に対抗するためにシリア軍に参加しています。この決定はレバノンで派閥の緊張に油を注ぎました。イランが後援するグループは、イラクでの関与についてコメントしていません。ベイルートで、ヒズボラ広報官は水曜日、この問題について話す権限がないと言いました。

 7月に、レバノン当局は、ヒズボラ指揮官がイラクで聖戦の任務で殺されたと言いました。イブラヒム・モハメッド・アル・ハジ(Ibrahim Mohammed al-Haj)はレバノンに埋葬され、彼の葬儀はヒズボラ当局の参列を受けました。これは6月にイスラム国がイラクに前進して以来、最初の知られているヒズボラの死亡でした。

 ヒズボラに近い匿名を希望したレバノン当局者は、ヒズボラはイラクに、戦線での戦闘に直接関係しない少数の軍事顧問を持っており、アル・ハジはその一人だったと言いました。イラク当局者も少数のヒズボラの軍事顧問が首都の北にいるスンニ派過激派と戦うイラクのシーア派民兵に戦線のガイダンスを提供していると言いました。しかし、ヒズボラが実際に戦闘しているかは不明です。

 匿名で話した民兵指揮官は、ソレイマーニー少将を恐れを知らないと説明します。彼は戦線ですら一度も防弾ベストを着ません。「ソレイマーニーは我々に、死は人生の終わりではなく始まりだ」と教えたと、民兵指揮官はいいました。


 記事は一部を紹介しました。

 先月紹介した記事に関連する報道です(過去の記事はこちら)。

 イラク軍はソレイマーニー少将とヒズボラのお陰で勝てたという記事です。

 確かに、有能な指揮官により兵士が鼓舞されて、戦いで大きな勝利を収めることは軍の常識です。指揮官向けの教範にも、リーダーシップは常に書かれることです。以前に紹介した中国系米軍兵士の自殺で、自殺した兵士をいじめていなかった小隊長まで拘束されたのは、リーダーシップの欠如が問われたためです。

 逆に、イラク軍に有能な指揮官の話が聞かれない理由が分かりません。聞こえてくるのは、部下に装備品を売りつけて設ける指揮官の話くらいです。イラクは地域的に優秀な指揮官を輩出しにくいところなのだろうか。寄せ集めのイスラム国に大敗する理由が知りたいところです。

 シーア派がイラクに肩入れすることで、イスラム国の撃退に役立つのはともかく、危機感を感じたスンニ派がシーア派と戦い出す危険もあります。こうなると、イランの存在は逆効果になりかねません。

 


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