パキスタンが知るビン・ラディンの晩年

2011.5.8


 military.comがパキスタン軍によるオサマ・ビン・ラディンの最期の日々を描き、アメリカを再び攻撃しようとするテロ立案者ではなく、味気ない部屋に隠れる年老いたテロリストで、資金難で、アルカイダを維持するのに苦労していました。

 しかし、CIAは彼がアルカイダの主要人物と接触し、アルカイダとイエメンとソマリアの支部による攻撃の計画と指揮に強い役割を演じたと言い、彼の住居から押収された書類を引き合いにしました。

 3人のビン・ラディンの妻は住居で彼と共に暮らしました。13人の子供がおり、8人はビン・ラディンの子供でした。

 妻の1人はイエメン生まれの、アマル・アーメド・アブドルファタ(Amal Ahmed Abdullfattah)で、2006年からビン・ラディンの隠れ家に住み、大きいが家具が少ない建物の上階から出なかったと述べたと、匿名を希望するパキスタン情報当局者は言いました。

 当局者は、ビン・ラディンがすべての時間、パキスタン軍がアルカイダの指導者の影響力と経済状態が徐々に浸食されたという期間を彼女と共にいたかどうかを示しませんでした。

 ビン・ラディンと彼の副官アイマン・アル・ザワヒリの間の金に関する論争は、5〜6年前にグループを2つの派閥に別れさせ、より大きな派閥をザワヒリが支配したと、パキスタン軍高官2人によると、ビン・ラディンは最期の日々に資金が欠乏していました。

 当局者は木曜日遅くにパキスタンの記者の小さなグループに話をし、彼らのコメントは別の匿名希望の軍当局者により確認されました。当局者は、彼の部局がどうやってビン・ラディンの経済状態や副官との別離を知ったのかは言いませんでした。

 ビン・ラディンの住居から押収された情報に基づく、ワシントンでのイメージは大きく異なります。

 それは、ビン・ラディンが過去十年間に考えられてきたよりも、ずっと多くアルカイダ要員の命令と作戦に関与したことを示し、彼がソマリアとイエメンのアルカイダの協力者に戦略的な命令を与えていたことを示したと当局者は言いました。

 米テロ対策当局者は、ビン・ラディンがイエメンの「アラビア半島のアルカイダ(al-Qaida in the Arabian Peninsula)」やソマリアの「アル・シャバブ(al-Shaba)」による攻撃で、どんなに大きな役割を果たしたかを議論してきました。

 ビン・ラディンの最優先事項は、彼自身の安全だったと当局者は言いました。しかし、データは彼が指導を行うこととイエメンとソマリアの連携組織に何をして何をすべきでないかを告げるのにずっと活発だったことを示していました。

 当局者は慎重に扱うべき資料を議論するために匿名で話しました。

 押収された資料は、来る9月11日攻撃の10回目の記念日にアメリカの列車を脱線させるアルカイダの計画を明らかにしました。

 彼らは、2010年2月に作成されたとみられる計画が初期の計画段階にあり、そのような攻撃のための活動中の計画がはないと考えています。FBIと国土安全保障省は全土の法執行機関に詳細を諜報速報で出しました。「公的な使用に限る」と記された諜報速報をAP通信は入手しました。

(中略)

 米軍の急襲隊が住居に入った時、米軍が投げた衝撃弾が彼らの方向感覚を失わせたこともあり、ビン・ラディンと彼の仲間は大きな抵抗をしなかったと、ビン・ラディンの妻と子供の説明を引用して、パキスタン当局者は木曜日遅くに言いました。

 パキスタン当局はAK-47とピストルを各1丁、小銃から1発が発射された証拠と共に発見したと、当局者は言いました。

 それが、彼らが行った「抵抗のレベルでした」と彼は言いました。

 彼の説明は、ホワイトハウスなどが初期に描写した激しく長時間の銃撃戦とかけ離れ、襲撃で殺された5人の1人だけが武装し、発砲したという米当局者が提供した最新の説明とほぼ一致しています。

 米当局者は、ビン・ラディンと共に、彼の息子を含む男性3人と女性1人が殺されたと言います。

 ビン・ラディンの妻、アブドルファタは脚を撃たれたものの、夫が殺されるところは見なかったと、パキスタン当局者は言いました。アルカイダの娘の1人がアメリカ人が父親を殺すのを見ました。


 パキスタン当局者の説明は理解しがたいところです。ビン・ラディンがパキスタン国内にいないと言いながら、資金の欠乏など、妙に詳しく知っているところです。同居した家族から聞いたのでしょうか。彼らはビン・ラディンの存在を知っていたのでしょうか。アルカイダの組織が二分された件が本当かどうかは非常に気になります。 重要な情報だけに、詳細が分からないのが気になります。

 現場にいた者たちから聞き取った部分にはかなりの信憑性があります。やはり、閃光手榴弾が使われたため、銃撃戦はほとんどなかったことが明らかになりました。ビン・ラディンは閃光と衝撃で動けないところを、胸を撃たれ、倒れたところに接近した米兵が彼の頭にとどめを撃ったと考えるべきでしょう。


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