中東・アフリカ動乱がビン・ラディンに影響か

2011.5.6
追加 同日 7:25


 次々と新しい情報が出てきて、その理解に目が回りそうです。

 「Asia Times Online」のサイド・サレーム・シャザド(Syed Saleem Shahzad)によれば、ビン・ラディンはアボタバードの隠れ家に約10日前に到着し、数日間で出発する予定でした。

 シャザドは3月25日に、ビン・ラディンはパキスタンのイスラム主義者の拠点、彼が長年隠れていた北ワジキスタン(North Waziristan)で隠れ家から突然、姿を現し、長期間に渡る追っ手の注意をひいたと報じました。

 Asia Times Online は3月に、過去数週間に武装勢力の砦で人目をひく会議をするためにビン・ラディンがこの地域を動き回っているという強力な内部情報に引き続き、CIAがアフガニスタンとパキスタンのヒンズークシ山脈で行った秘密作戦を仕掛けたと報じました。

 ビン・ラディンが5000万ドルの懸賞金を考えると大きなリスクを冒して現れたのは、アルカイダとその仲間が成就できなかった、抑圧的な政権を倒したり脅威を与えるような、アラブ世界に広まる先例のない政治的大変動に対処するための戦略を構築するためでした。

 「ビン・ラディンはアフガン戦でパキスタンとアフガンのイスラム教徒の中堅幹部の中に統一を作り出すという衝動に駆り立てられたと、シャザドは観測しました。(以下は省略します)

 また、アメリカで不毛な議論が再燃しています。オサマ・ビン・ラディンを発見するのに「拡張型尋問テクニック(enhanced interrogation techniques)」、つまり水責めなどの拷問が役だった、ブッシュ大統領の判断は正しかったと言う人たちです。military.comが「Stars and Stripes」の記事を転載しました。

 ハーリド・シーク・モハメッド(Khalid Sheikh Mohammed)とアブ・ファラジ・アル・リビ(Abu Faraj al-Libi)は一時、海外のCIA秘密刑務所に拘束され、ジョージ・ブッシュ大統領が承認した、溺死を模倣する水責めとその他の厳しい物理的な処遇を受けました。モハメッドは水責めを183回受けたと政府は明らかにしました。

 news.comによれば、ビン・ラディン急襲で、武装していたのは殺された5人中1人だけだったと、匿名の国防高官は言いました。殺された射手は襲撃の最初の数分間に殺され、強硬な抵抗の中で、混沌として長引いた銃撃戦と描写された元の報告から大幅に異なりました。作戦は精巧な、住居を通して階ごとに制圧する任務で、遭遇した他の者すべては武器を持たず、素早く排除されました。


 エジプト、リビア、シリアなどで起きている民主化への動きがビン・ラディンを焦らせ、行動を起こさせたとすれば、これは民主主義の力かも知れません。

 私はこれらの動乱がアルカイダを求める人々の熱意を薄め、民主主義の利益を享受することで、過激主義への廃絶に動く可能性があると、前に指摘しました。ビン・ラディンがそうした危険性を感じたかどうかは不明ですが、これは極めて興味深い事実です。

 つまり、イスラム諸国の民主化を援助することで、テロの大半は防止できるかも知れないということです。私がリビアの反政府派を支援すべきだと言うのは、こういう目的のためです。これまではイスラム教徒は民主主義よりも信仰に目を向けていました。彼らが民主化することで、西アジアから北アフリカまでの地域に民主主義の輪を構築できます。その後は、それがアフリカを南下していくかも知れません。

 今回見つかった住居は、ビン・ラディンが持つ隠れ家の一つだったのかも知れません。短期間しか滞在しないので脱出口を造らなかった可能性もあります。

 拷問の問題は昨日、CNNでも是非を議論をしているのを見ました。しかし、前にも指摘したとおり、拷問を正当化することはできません。連絡係の仮名は拷問で得られたのではありませんし、拷問はテロ容疑者から嘘を引き出すことが多いのです。小説「ジャッカルの日」では、拷問により殺し屋のコードネームが判明し、それをたぐっていくことで仏大統領暗殺が阻止されます。そういうイメージで現実を見ても駄目なのです。今回、ビン・ラディンの北ワジキスタンでの動きも手がかりの一つであったことが判明しており、これは内部情報が源でした。CIAが海外に秘密の刑務所を造ったことも、いまでは意義が否定されています。これらの刑務所があったから秘密が得られたのではないのです。拷問はアメリカの名誉を損なう大きな問題です。

 海外では驚くような情報が飛び交っていますが、国内メディアは「パキスタンの反発」みたいな基本的情報ばかり取り上げ、事件の背景に目が届いていません。あらゆる意味で、遅れをとっていることを認識すべきです。

 銃撃戦は少なかったという私の推測が裏づけられました。抵抗はほとんどなかったのです。短時間で終わらせる必要上、明らかに無抵抗の態度を示さなかった者は即座に射殺されたのでしょう。その中でビン・ラディンが射殺されたのはなぜかという疑問は、依然として残ります。これは降伏勧告もしたという説明に対する疑問でもあります。


Copyright 2006 Akishige Tanaka all rights reserved.