混乱する襲撃の詳細:ビン・ラディンは処刑?

2011.5.5


 military.comによれば、バラク・オバマ大統領はオサマ・ビン・ラディンの写真を公開しないことに決めました。

 CBSの「60 Minutes」で、オバマ大統領はスティーブ・クロフト(Steve Kroft)に、彼が写真を見て、彼らがビン・ラディンを獲得したことを納得したと言いました。「それは彼でした」と彼はクロフトに言いました。「頭部を撃たれた人物の写真が、暴力を駆り立てたり、プロパガンダのツールとして使われないことを確実にするのが重要です」。

 alarabiya.netが、現場の生存者による証言を報じています。これは米当局の発表と大きく異なります。気になる部分を紹介します。

 パキスタン防衛高官は、オサマ・ビン・ラディンの娘は、彼女の父親が作戦の最初の数分間で米特殊部隊に生け捕りになり、射殺されたと認めました。

 パキスタン治安当局は、米軍がアフガニスタンへ飛んだあとで、女性2人、2〜12歳の子供6人を拘束しました。一部の報道は、女性と子供を含む、大半がアラブ人の16人が拘束されたことを示します。

 ビン・ラディンの家族はラワルピンディ(Rawalpindi)へヘリコプターで運ばれ、そこの軍病院で治療を受けています。ある情報源は、ビン・ラディンの妻は脚か肩を負傷していると言いました。彼は彼らは、イエメンの女性を加えた、ビン・ラディンの子供と妻だと言いました。この女性は家族の個人的な医師かも知れません。ビン・ラディンは腎不全であることが知られていました。彼は9/11攻撃の前に、インドのハイデラバード(Hyderabad)で治療を受けたと言われます。情報源は、もう1つのヘリコプターを失ったあと、彼らを億十分な場所がなかったので、米軍はこれらの家族メンバーを拘束できなかったと推測しました。

 当局者は殺された女性について、彼女がビン・ラディンのために命を投げ出したのだから、彼女が彼の妻か親族かも知れないと言いました。「我々の情報では、彼女は作戦中にビン・ラディンの盾になり、アメリカのコマンドに殺されました」と当局者は言いました。

 米特殊部隊は2体の遺体だけを軍用ヘリへ積み込みました。1つはビン・ラディンで、もう1つは彼の息子です。パキスタン治安当局と兵士が現場に到着するまでに、米軍コマンドはパキスタンの部族地帯の山の上を越えていました。

 情報源は、住居からパキスタン軍に拘束された女性2人の1人が何人かいるビン・ラディンの妻の1人だと言いました。彼女はイエメン人で、作戦中に意識不明になりました。女性は意識を回復するまで治療が必要でした。

 「事前調査の間に、女性は彼らは5〜6ヶ月前にアボタバードに引っ越したと言いました」とパキスタン当局者は言いました。彼女はビン・ラディンや彼がこの家に移ったことについて、それ以上の情報を提供しませんでした。

 当局者は、ビン・ラディンの12歳の娘が建物の3階から救出された6人の子供の1人だと言いました。

 娘はパキスタンの調査官に、米軍は彼女の父親を生きたまま捕まえ、家族の目の前で射殺したと言ったと伝えられました。情報源によれば、ビン・ラディンは1階におり、米兵に射殺された後でヘリコプターに向けて床を引きずられました。

 矛盾する報道が、米軍が連れて行った2番目の人物についてありました。一部のパキスタン当局者は、それが米軍が負傷させたビン・ラディンの息子で、別の軍用ヘリに放り込まれたと言い、別の者は彼は作戦中に殺され、死体がだけが持ち去られたと言いました。

 当局者は家から救出された子供たち全員がビン・ラディンの子供ではなかったと言いました。全員は安全な場所で守られています。米軍は拘留された女性と子供にアクセスを許されませんでした。2番目の女性については、多くの当局者はビン・ラディンの近親者か使用人だろうと考えています。

 パキスタンの情報当局者が拘留した者たちから集めた情報によれば、ビン・ラディンは武装も、住居で米軍のヘリコプターや突入隊に発砲する真似もしていませんでした。

 「住居からは米軍とヘリコプターには一発も撃たれませんでした。ヘリコプターは技術的な問題を起こし、墜落して、残骸が現場に残されました」と事情を知る当局者は説明しました。

 パキスタン軍は住居の周囲に非常線を張り、米軍の軍用ヘリが除去されるまで、この地域にメディアのアクセスを許しませんでした。一部のメディアは撮影のためにアクセスを許されましたが、住居の中に入るのを許された者はいませんでした。

 パキスタン軍は2つの家の入り口を封印し、防護のために軍隊と警察を展開しました。

 莫大な数の国内、海外のジャーナリストが脅威的な物語を取材するためにアボタバードを訪れました。地域がメディアに公開される前に、パキスタン兵はバッファロー2頭、牛1頭、雌鶏約150羽をどこかへ移しました。

 当局者は、月曜日と火曜日の詳細な家宅捜索で、武器や爆発物はどこにも見つからなかったと言いました。簡素な家には13室があり、1階に6室があり、残りは2階と3階にあったと言いました。

 「屋内に掩蔽壕やトンネルはなく、私は世界で最重要指名手配がされた男がここに住もうと決めたのかが理解できません」と高官は言いました。

 アシャド・カーン(Arshad Khan)とタリク・カーン(Tariq Khan)が家を所有していました。どちらもチャーサダ地区(Charsadda district)のタンギ(Tangi)の一員です。当局者は2人の兄弟や彼らの仕事については情報がないと言いました。

 隣人によれば、住居の住人は誰とも交際しませんでした。

 「とても慎ましい家族で、この地域の結婚式や葬式にはまったく参加しませんでした」とビラル町(Bilal)のカリ・マスタナ・カーン(Qari Mastana Khan)は言いました。「でも、彼らは親切で、清潔な飲料水や食料を貧しい隣人に与えようとしました。ラマダンの月には、彼らは彼らの家でのイフタール(断食後に取る食事・Iftar)に我々を招待し、美味しい食事を提供しました。アシャド・カーンには、3人、タリクには4人の子供がいました」。

 住民が家と住人について共有した別の興味深い面は、過去6年間において、決して近所の女性が家に入ることや、彼らの女性が隣人を訪問することを許さなかった、家族の厳格な振る舞いでした。通りや隣の野原で遊ぶ子供は、彼らのボールが誤って越えたときですら、住居に入ることを許されませんでした。

 「大抵、彼らのボールが家の壁を通り過ぎて落ちた時、子供たちはすぐにそこに行って、それを拾い上げますが、彼らは決して、この特別の家には入ることを許されませんでした。ボールがそこに落ちて、子供たちが取り戻しに行った時はいつも、ドアを開けた者は誰もが、彼らにボールを探しに入るのを許す代わりに、新しいボールを買う金を与えました」と、この地域の長老、モハマッド・ファヤズ(Mohammad Fayaz)は言いました。

 彼は、こうした詳細のすべては彼を疑わしくしたものの、彼を世界の最重指名手配者が彼の近所に隠れていると確信させるには十分ではなかったと言いました。


 ここで二つの記事を一緒にしたのは理由があります。米政府がビン・ラディンの顔写真を公開しないのは、オバマ大統領が言うとおりの理由の他に、ビン・ラディンを処刑スタイルで殺していた場合、弾痕の周囲に火傷の跡があるなどの痕跡を知られる恐れがあるためかも知れません。つまり、法医学者が疑問視するような痕跡が写真に残っていたかも知れないということです。後述しますが、この可能性は低いと私は思っています。

 ビン・ラディンが生け捕りになったのなら、これこそ彼に恥をかかせる絶好のチャンスでした。以前から、捕まる前に自分を殺せと部下に命じていた彼が生きて捕まったのです。顔写真やビデオ映像を公開し、「堕ちた偶像」というイメージを定着させ、彼の神格性を傷つけることができたはずです。それにより、テロ志願者を減らすことができたはずです。

 一方で、致命的な武器しか持たない特殊部隊に生きたままの拘束を命じることの問題もあります。確実に拘束したいのなら、ゴム弾やテーザー銃などの非致死性の武器を使うべきだったのかも知れません。そうしなかったのは、ビン・ラディンが死亡したとしても構わないという意志が働いた可能性があります。友軍の支援が受けられない他国での任務であるため、短時間で撤収できることを最優先した可能性もあります。

 なお、ビン・ラディンが抵抗したとされるのは、自決を試みた可能性もあります。敵の手にかかって死ぬよりは、自分で死んだ方が名誉ですから、銃に手を伸ばしたところを撃たれた可能性はあります。シールズ隊員から見ると、それは攻撃を試みているように見えます。

 情報は非常に混乱しており、まだどれが正確かは断定できません。

 12歳の娘の証言は矛盾しています。彼女はビン・ラディンが1階で処刑されるのを目撃しましたが、パキスタン軍は彼女を3階から救出したと言っています。衝撃的な体験をした場合、記憶が混乱することは既知の心理現象です。娘の証言が事実と違っていたとしても特段の疑問はありません。

 それよりも不思議なのは、成人女性が生存しているのに、彼女らの証言よりも先に娘の証言が出てきたことです。彼女たちも、ビン・ラディンの最期について、何かを目撃しているはずです。パキスタン当局が何らかの意図を持って、情報を操作していないかという疑問もあります。たとえば、女性たちが3階でビン・ラディンが殺されたと証言し、娘が1階だったと証言している場合、娘の証言だけを発表することもあり得るというわけです。

 常識的な考察、知られているビン・ラディンの性格を考えると、ビン・ラディンは2階か3階、特に3階に住んでいたと考えられますから、作戦の初期に1階で殺されたとは思えません。突入隊の移動経路は不明ですが、今のところ、屋上に降りたという情報はありませんし、3階に行く階段に障害物があったという情報もありますから、突入隊は1階から上階へ向かったと考えられます。すると、ビン・ラディンは3階で作戦の後半に殺害されたと考える方が合理的です。

 いくつかの点は、私の推測を裏づけました。

 住居内には掩蔽壕やトンネルがありませんでした。当局者の感想は私と共通します。この住居は、とてもテロ組織の指導者の家とは思えません。

 パキスタン当局は、襲撃を黙認したのではなく、現場に向かったのです。しかし、通報から出動までの時間差は、米軍の作戦を完了させました。さらに、高い塀により、中に入るのに手間取り、何もできなかったのです。住民は明け方に騒音を聞いて床から起き、状況をしばらく眺めた後に警察に通報したはずです。警察は通報者から状況を聞き取り、態勢を整えて出動して現場に行くまでには、かなりの時間がかかります。

 これにより、パキスタン政府が事前に襲撃を通告されなかったことは、おそらく真実と思いました。これはパキスタンの主権侵害であり、今後の検討で問題視されます。しかし、アメリカからの多額の人道的支援を考えると、パキスタンはしばらく抗議してから沈黙するでしょう。これはいつも繰り返されてきたことです。

 状況がある程度把握できましたが、今後も情報の評価を続けます。


Copyright 2006 Akishige Tanaka all rights reserved.