ビン・ラディンの隠れ家を探す方法

2011.5.3


 theglobeandmail.comがオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden)の住居を突き止めた経緯を報じています。簡単に要約します。

 CIAをオサマ・ビン・ラディンへ導いたのは、彼の連絡係でした。

 2003年3月1日、がパキスタンのラワルピンディで、9/11攻撃に関与したハーリド・シーク・モハメッド(Khalid Sheikh Mohammed)が拘束されました。彼はポーランドとルーマニアの秘密の刑務所で水責めを受けました。数ヶ月後、通常の尋問の中で、彼はビン・ラディンに最も信頼されている連絡係の仮名を明かしました。

 連絡係の名前は、2年後に逮捕された別のアルカイダ幹部、アブ・ファラジ・アル・リビ(Abu Faraj al-Libi)が類似した尋問の中で明かされました。

 CIAは、メッセンジャーを見つければ、ビン・ラディンを見つけられると認識しました。

 アル・リビが逮捕されたのと同じ2005年のある時点で、アボタバードで建設が始まりました。

 2007年、米情報アナリストは最終的に連絡係の本当の身元を発見し、彼をパキスタンまで追跡しました。この発見は連絡係と彼の兄弟が国内で活動する場所を特定する大規模な作戦を起こさせました。しかし、彼らが目立たなかったので、CIAは正確に兄弟が住む場所を特定できませんでした。

 昨年の中頃、CIAは大きなチャンスを得ました。米当局者によれば、連絡係は米諜報組織が監視していた人物と連絡を取りました。彼が話し合いをしたとき、連絡係はビン・ラディンの隠れ家から離れたどこかにいましたが、この会話は情報当局者にとって十分な情報を与え、彼を監視下に起きました。彼はCIAが昨年8月に発見したアボタバードの住居に彼らを導きました。

 住居は百万ドルと評価され、電話やインターネットを持たず、周囲の住宅よりも8倍の広さでした。不動産は連絡係と彼の兄弟が所有しましたが、彼らは説明可能な財源を持っていませんでした。住人はゴミを収集のために通りに置くのではなく、邸内で燃やしました。

 シーク・モハメッドとアル・リビはパキスタンの都市部で逮捕されており、アルカイダの指導者がこうした街で何年も隠れられることを証明しました。8月にCIAは住居が誰か重要人物を隠すために建てられたと結論しました。

 「我々はすぐに、2人の兄弟と彼らの家族だけでなく、より多くの人たちが住居に住んでいることを知りました」「3つの家族がそこに住んでいて、その1つの規模と構成はビン・ラディンの家族メンバーに合致しました」と政権高官は言いました。

 バラク・オバマ大統領(President Barack Obama)はその月に情報を知らされ、CIAとホワイトハウスは以降の週をビン・ラディンがそこに住んでいる見込みを評価することに費やしました。

 2月中旬、当局者は、彼の息子カリド(Khaled)と最愛の妻を含む家族と共に住居に住んでいるのがビン・ラディン本人だと最終的に結論しました。

 3月14日、側近と共に、オバマ大統領は続く6週間に作戦計画を作成する、少なくとも5回の国家安全保障会議の1回目を開きました。一方で、他のホワイトハウス当局者は、予算に関して政府機能が停止することを避けようと奮闘しました。4月初めまでには、襲撃の軍事計画はすでに進行中でした。

 バージニア州のダム・ネック(Dam Neck)に拠点を置く、シールズの「チーム・シックス」として知られる海軍特殊戦開発グループが任務を命じられました。チームはアフガニスタンのバグラム空軍基地(Bagram air base)のキャンプ・アルファ(Camp Alpha)でビン・ラディンの住居の模型の中で予行演習を行いました。

 先週金曜日の午前8時20分、オバマ大統領は最後の国家安全保障会議をホワイトハウスのディプロマティック・ルーム(the Diplomatic Room)で行いました。出席者は国家安全保障担当補佐官トム・ドニロン(Tom Donilon)、大統領主席補佐官ウィリアム・デーリー(William Daley)、テロ対策担当補佐官ジョン・ブレナン(John Brennan)、国家安全保障担当副補佐官デニス・マクダナー(Denis McDonough)でした。その朝、大統領はあとで先週の竜巻の被害を視察するために旅立ちましたが、最初に急襲を承認する正式な命令を出し、パキスタン政府に知らせないという重要な決定をしました。「我々はこの住居に関する情報を、パキスタンを含めて、他国と共有しませんでした」「事実、この作戦が進展していることを知っていたのは、政府内のごく少数のグループだけでした」と高官は言いました。

 日曜日、4機のMH-60がアフガン国境を越えて飛び立ちました。シールズのチームは、諜報要員、戦術通信員、情報収集と住居の中の目的地に着くためにハイパースペクトル画像を使うナビゲーターを連れて行きました。急襲隊がヘリコプターからドッと出てきました。彼らが地面に着くやいなや、銃撃戦が始まりました。ビン・ラディンは襲撃に抵抗しようとして、ある時点で銃に手を伸ばしましたが、彼が発砲できたかどうかは不明です。銃撃戦が止むと、連絡係、彼の兄弟、ビン・ラディンと彼の息子カリドは死んでいました。アルカイダ要員が人間の盾にした彼の妻も死んでいました。彼女が死ぬ前に、彼女は明らかに彼の名前を叫びました。ビン・ラディンは襲撃の終わりころに死にました。彼は左頭部を2回撃たれました。ヘリコプター1機は機械の故障で、突入隊によって破壊されました。アメリカ人たちはビン・ラディンの死体を残りのヘリコプターに積み込み、情報資料を集めるために家を調べ、離陸しました。作戦全体は40分間続きました。

 大統領は3時32分にシチュエーションルームに来ました。3時50分までに、ビン・ラディンが作戦で殺された者の中にいると暫定的に特定できたと知らされました。7時に、大統領は一連のDNA鑑定のあとで、ビン・ラディンが死んだという高い可能性があると知らされました。

 ビン・ラディンの死体は写真撮影のためにアフガンへ運ばれました。死体は空母カールビンソンに乗せられ、北アラビア海の公開されていない場所へ向かいました。イスラムの伝統に則った、遺体の清めと白布で包むことを含め、ビン・ラディンの水葬の準備は、東部夏時間の月曜日1時10分に始まり、50分間かかりました。2時丁度にビン・ラディンの死体は海に葬られました。


 記事には疑問点があります。ヘリコプターがMH-60だけなのと、ビン・ラディンの妻が死亡したという点です。当初、妻が死亡したと発表されました。後に別の政府高官が、妻は負傷しただけで、別の女性が死亡したと修正しています。ビン・ラディンの負傷も、一般の報道では胸と頭部ですが、この記事では頭部に2発となっています。

 しかし、実に重要な記事です。

 何が重要かというと、ビン・ラディンの連絡係の仮名を知るのに拷問が使われていないことです。2人のアルカイダ幹部は通常の尋問の際に、仮名を明かしました。やはり、水責めのような拷問は無意味なのです。

 また、単に誰かがビン・ラディンの居場所を教えたという、タナボタ式の勝利ではなく、手がかりを元に地道に捜査した結果であることも分かりました。連絡係の通話を突き止めたのは、エシュロンのような盗聴装置でしょう。

 つまり、通常の尋問とエシュロンが大きな役割を果たしたと言えます。伝統的な手法とハイテクの手法が役に立ったのです。なぜか嬉しく感じます。

 DNA鑑定の結果が出るのが短時間なのは、事前に収集されている親族の複数のDNAから、チェックのやり方を検討してあったのだと思われます。また、死体は写真撮影だけでなく、短時間の検死が行われたと考えられます。

 葬儀の準備をしたのが誰かは、それほど難しいことではなく、空母に乗艦している、イスラム教の資格を持つ従軍聖職者が行ったのだと考えます。

 急襲の詳細は、まだ分かりませんが、銃撃戦が40分間なのではなく、突入から離脱までの時間であり、家宅捜索の時間も含んでいることが確認されました。それならば、納得できる時間です。テレビニュースはCG映像で襲撃を再現して見せますが、番組によって内容が違うので、正確な情報はないのだと思われます。


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