官房長官の「暴力装置」発言は問題か?

2010.11.20

 仙谷由人官房長官が自衛隊を「暴力装置」と呼んで、物議を醸しました。官房長官の発言について色々な意見はあるでしょうし、私は彼を擁護する気はまったくありませんし、しばらく前から彼を更迭して欲しいと思っているくらいです。しかし、私はこんなことで大騒ぎする必要はないと考えます。

 戦争という問題の深刻さに比べれば、言葉尻の問題は大して深刻とは思えません。世界では、このような小さな事件とは比べものにならない事件が毎日起きており、本来は我々はそこに注意すべきなのです。

 それに、戦争の本質は基本的に暴力だということは軍事学の基本です。なにより、古典軍事学では戦争の本質を暴力の行使と定義しています。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦争論」の中で、「戦争とは、相手にわが意志を強要するために行う力の行使である」と述べています。日本語訳では「力の行使」の部分が「暴力」とか「暴力行為」と訳されている場合もあります。「力の行使」は暴力とは意味が違うと思う方は、「戦争論」を読んでください。この本のさらに先を読めば、これが暴力に他ならないことが理解されるでしょう。クラウゼヴィッツは、力の行使の性質について延々と述べ、何か理由がない限りは、力の行使は極限にまで達すると主張します。だから、楽観的な見方は極めて危険だとも説きます。

 問題を簡単にするために、ここでは憲法第9条は無視して論じます。防衛や国連の任務が中心の自衛隊にあっても、自衛隊が防衛戦を行う以上は、戦争の本質から目を背けるわけにはいきません。クラウゼヴィッツによると、戦争は他の形によって行う政治です。日本の政治目的は日本の独立を維持し、その領域を守ることです。この政治目的を達成するために、日本は自衛隊による暴力の行使を認めているのです。自衛隊の装備の多くは、人命を奪ったり、物品を破壊するための装置です。また、警察は軍事的手法を民間に転用した組織と言えます。準軍事組織であるため、その組織は軍隊に酷似しています。クラウゼヴィッツ風に言えば、警察は犯罪を防止するという政治目的を達成するために行動する軍隊となるでしょう。

 品位を重んじる議会では、国防を担う人たちのご苦労を思いやり、言葉を選んで語るのが常ですが、これが戦争の本質を見失わせる危険が常にあります。「戦争」ではなく「国家安全保障」とか「防衛」といった言葉を使うと、戦争の悲惨さがどこかに飛んでいきます。こういう言葉は印象が悪くないので、人々に容易に戦争を語れるようにして、自覚することなく一層凶暴化させるのです。そういう議会で「暴力装置」という言葉が出たので、人々は驚きました。しかし、「自衛隊を暴力団のように言うな」と怒る前に、戦争を暴力を抜きに語るのが難しいことを思い出すべきです。他に考えるべき事が山ほどあることを思い出すべきです。

 警察や軍隊(便宜上、自衛隊も含めます)の最大の問題は、マックス・ウェーバーが言ったとおり「国家に独占された暴力組織」である点です。独占組織であるため、たとえこれらの組織に問題があっても、他に頼ることはできません。どの戦争でも、軍隊が国土を守るために行った攻撃の一部は自国民を殺傷しています。警察が泥棒を捕まえてくれそうになくても、我々は警察に被害届を出すしかありません。自分で犯人を捕まえて罰を与えたら、それ自体が犯罪です。我々は解けないパラドックスと共にいます。我々はむしろ、そこに注意を払うべきだと思います。



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