最終戦争論 戦争史大観
 これら2冊は、ちょっと変わった理由で取りあげます。

 石原莞爾陸軍中将が書いた「最終戦争論」は本人が後年認めたとおり、重要な部分が誤っています。彼が、将来1発の爆弾で都市が壊滅するような戦争が行われると考えたのは、原子爆弾の出現を予測したと言えますが、彼の宗教的な信念から生み出された「世界最終戦争」の到来は完全に的はずれでした。

 最終戦総論は簡単に言うと、歴史の必然的な流れから、世界を二分して戦うような最終戦争が訪れるという未来予測です。日本はその二大勢力の片側を担うのだから、満州に重工業地帯を建設し、戦いに備るべきだと説きます。この最終戦争は軍事的な考察だけでなく、仏教思想との合作です。彼によれば、戦略や戦術は一定の間隔で変化しており、それは千年→300年→125年という間隔だといいます。すると、次の大きな変化は数十年後に訪れると予測でき、それは現在よりも遙かに強力な武器によって戦われる世界最終戦争だと言うのです。そして、その戦争の後は悠久の平和が訪れ、人類は平和になると考えました。人類はより小さなグループから大きなグループへと戦闘単位を巨大化させ、最後は二大勢力の争いに発展するのは必然だという考え方です。これはちょっと共産主義に似た思考でもあります。

 争いは将来なくなり平和な社会が訪れるというファンタジーは、多くの宗教や共産主義に見られます。オウム真理教はこれが不気味な形で結実したものでした。しかし、これは決して現実のものではありません。私も少年期に似たようなことを考えたことがあります。最終戦というものがあるなら、それが終わったら世界は永久に平和になるのではないかというイメージを持ち、本気でそれを信じました。やがて、これは世の中の一部しか見ないで出した結論だと気がつき、もっと現実的に世界を見ようと思うようになったものです。これは結局のところ、人間の心理の中に根ざすイメージやファンタジーと言うべきで、それと現実を関連づけるのは誤っています。世界の宗教に類似する神話やファンタジーが存在するのは、その証拠です。カオスから対立を経て平和に到達するというイメージは、個人の人格の形成が物語になったものであり、現実の歴史とは違うことに気がつくべきなのです。これらは作話のテクニックとして小説や演劇で応用されています。

 石原が研究したのはヨーロッパの戦いばかりで、その詳細は「戦争史大観」に書かれています。しかし、彼が考察した範囲はリデル・ハートの「戦略論」よりも少ないのです。分かっているだけでも世界にはもっと多くの戦争があり、それらを含めて考察しないと結論は出せないはずですし、その結論には至らないはずだと考えます。石原も後年、自分で誤りだったと認めました(石原には熱烈な信者がおり、今でも彼の予言が正しいと考えているようですが)。

 しかし、彼の本を読んで分かるのは、彼の誠実な性格で、それには魅了されます。反論に対しても弱点は率直に認め、実に気持ちがよいのです。主張したことは非常に危険な内容であるにもかかわらず、その高潔な人格にはシンパシーを持ち得ます。タイムマシンで彼が生きている時代に行って、彼と議論したら、きっと楽しいだろうと思います。さらにすごいのは、石原が自身の信念に従って日本の国家戦略を動かそうとしたことです。東条英機との政争に敗れて陸軍を去らなければどうなっていたのか、非常に気になるところです。石原は、東京裁判で自分が被告に並ばないのは不思議だと言っていました。しかし、昭和天皇は石原を「よく分からない人物」だと思っていたようです。それが無理もないことなのも確かです。

 善し悪しは別として、旧日本陸軍にはこういう人もいたということを知って欲しいので、本書をおお勧めする次第です。2冊を一緒に読んでほしいと思います。2冊を1冊にまとめた本もありますが、ここでは新しい方をご紹介します。(2007.1.21)

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